続・いつ何をするかの話

僕は走り続ける事ができません。
どこかで休まなければ体か心が壊れます。
 
必ず休息の時間は必要である、という事を自覚しました。
そしてその休息の時間は思った以上に長いということも最近自覚しました。
つまり、これ以上、無駄を排除しても休息以外の時間を除いて「◯◯時間」しか稼働できない事が明確になりつつあります。
 
どれだけ集中しようとも、どれだけサボらないように気をつけようとも、「◯◯時間」の限界値が存在します。
したがってその状況でさらに生産性を上げるには「◯◯時間」内に片付けるタスク量を最大化するようにやり方を変える必要があります。
難しそうです。しかしそれをどうもしないといけないようなので、今後はやり方の振り返りを増やしていこうと思いました。終わり。

いつ何をするかの話

ある時間帯に何をするか、もう少し詰めていこうと思いました。
過去に休憩の時間、休息の時間を潰したことで苦しんだ事があるので、そこはもう少しうまくやりつつ、自分の中で必要な時間を可能な限り作り出していこうと思います。
 
休息も含め、僕の体と心が必要とする時間を多くしていきたいと、思いました。
終わり。

集中する話

何をしているのか、今から何をするのか決めてそれ以外の事をしなければ集中した、と言ってもいい気がします。
 
ならば、決めた事を実行し、それだけをやり続ける。
その単純な事を阻害する項目を排除すれば集中して作業ができうる、ともとれる気がします。
本当はそんな風に単純にはいかないのですが、集中できないから遅い、という事態を避けるためには集中を阻害してる項目を明らかにし、それを潰していくしかないのでは、と思いました。終わり。

服を買った話

冬に向けて服を買いました。
服を買う事がすごく苦手でした。
どう説明すればいいのかわかりませんが、そもそも服を買う事自体が欲求に含まれていないようなそんな意識がありました。
 
ひどく乱暴に言うと「着れればいい」と言う意識が今も根底にはある気がします。
何年も前に買ったクタクタのシャツも大きな穴が空いていないなら着ればいいと思ってしまいます。
そしてまず「服を買おう」という意識が消極的なものになっていきます。
消極的な意欲になってしまうので、お店に行くのも億劫になります。
多くの服の中から選ぶのが億劫になります。消極的なくせに着る物が自分のアイデンティティの一つだという意識はあるようです。
人が苦手なので、お店の店員さんが怖いというのもあります。うまくかわす事ができないのです。
そしてどんどん面倒になってきて、使う時間もお金も惜しくなって、結局買わない、買っても安いものを適当に買う、という事が多かったです。
 
ところが最近、年齢を重ねたという事と、自分と同世代の知り合いが増えたという事、その辺りから起因して自分の服装、見た目に気が行くようになりました。
また、働いていたり生活をしていたりして、自分が住みよい環境が欲しいと思うようになり、それはつまり自分が他人にとってよい環境を提供する事、と思うようになりました。
その延長線に清潔感のある服、見た目、一目見た時にプラスの感情を持ってもらう事、そういうことに意識が向くようになりました。
前述のアイデンティティをよりプロデュースしようとしているのかもしれません。
 
相変わらず、お店で服を買うのは苦手です。上手い人はセールを狙ったり、もっと自分に似合うものを探すことに慣れているのかもしれません。
でも今日はじっくり時間をかけて気に入るものを探して、自分の中で納得のいくお金の使い方をして、家に帰って服を着てみて「いいじゃんいいじゃん」と一人で鏡を見てしまいました。
少しだけ、「服を買うこと」のやり方が自分の中で腑に落ちる感じがしました。
終わり。

乾燥の話

乾燥してきました。
自分の性質もあって、肌荒れがひどくなってきました。
地味に痛いのがストレスです。服ズレから、静電気が発生して、チリチリ肌が痛むような錯覚?があります。
つらみ・・・終わり。

写真の話

写真とはなんぞや、というレベルの高い話をできるほどの経験もないので,そういった話ではないです。
 
毎日写真を一枚撮ってみよう、そう思って3ヶ月ほど経ちました。
何か撮影したいものはないか、毎日いろいろ観察をして何気ないただの道端の雑草や花に魅力を感じて写真を撮る、そんな事が増えました。
 
今日も夕方のまっすぐ進む太陽の光にキラキラ光る枯れかけた葉が綺麗で、写真を撮りました。
そうして写真を撮りながら、いつも今僕が綺麗と感じている気持ちを写真に残せないなぁと思います。
 
僕がインスタにあげている写真はもれなく加工しています。
上述の通り、僕には写真をちゃんと撮る経験がなくて技術もないので、目の前にある綺麗な景色をそのまま残すことができません。
撮影した時の気持ちを思い出して、せめて少しでもその気持ちが表せられるように、その気持ちが強調されるように写真を加工をしている気がしました。
 
こんなことを言ってはなんですが、これまであまり写真の良さがわかりませんでした。
現実のものをただ転写した、そんな風に考えていました。
しかし毎日写真を撮るようになって、素人ながらに少し考えて考えが変わってきた気がします。
 
現実のものをただ転写する、ただそれだけでは何も魅力がないのだと思います。
僕の目は、ただ目の前の現実を転写するだけの装置ではないからです。
目の前の事、物、者、事象、それらのいずれかに無意識に、または意識的にフォーカスをした場面に僕の感情は動いていると感じます。
ならば、そのフォーカスしたものを写真に残さないと、僕が抱いた感情と似た感情を共有してもらうことは難しいのだと思います。
 
自分の目がフォーカスを合わせた何かを一枚の写真の中で浮き彫りにするために、ピントを調節したり、色相を調整したり、様々なカメラや写真に関わる技術が必要になってくるのだと思うようになりました。
僕はその技術を加工アプリでなんとかお手軽に手に入れて、それを毎日続けようと思った次第です。
 
そして、そんな風に思うようになって、改めて目の前の景色はもうそっくりそのまま残すことはできないんだと、思うことが多くなりました。
だからカメラを、僕の場合はスマホを、掲げてシャッターを押してもそれで満足することなく、目の前の景色をちゃんと自分の目で見ようと思うようになりました。
終わり。

タスクを諦める話

最近、結構簡単にタスクを諦めます。
もう少し、もう少し、ということをしなくなりました。
今日できなかったことは割り切って、タスクリストとスケジュールを整理して、明日に備えます。
 
仕事でもプライベートでも、毎日タスクリストとスケジュールを更新し続けてるのが良い方向に影響しているのかもしれません。
あとは一日にできることは意外と少ないことを知ったのも大きいです。
 
なので、今日も簡単に諦めて、明日に備えようと思います。