ゼルダはいいぞ!の話

ゼルダの伝説のコンサートに行きました。
 
音楽そのものも素晴らしかったのですが、やはりやったゲームの曲は頭の中で思い出がぶわぁっと出てきて、その感動は無類です。
ぽろりと泣いてしまいました。
 
ゼルダはよいです。
終わり。

見積もる話

将来の何かを見積もる仕事はよくやります。
しかし将来のことを全て見通す力は僕にはありません。
 
ただ、
1秒後に月まで行け、と言われたら無理だろうなぁと思います。
1秒以内に今キーボードの横にあるマウスに指を振れろと言われたら、できそうな気がします。
 
明らかに不可能そうな未来と明らかに可能そうな未来、それは確かにあるのだと思います。
しかし、その二つの距離が近づくにつれ、僕はどこかで未来を見誤って失敗するのだと思います。
その失敗の原因は、例えばマウスに指に触れるまでの時間は実は2秒かかるといった、「できそうな気がする」体感や感覚と実測の差と、
マウスに指に触れるまでのわずかな間に隕石が頭にぶつかってしまうような予期できない事柄の積み重ねなのだと思います。
 
将来の見積もりの精度を絶対にすることはできないと思っています。
しかし「絶対にすることはできない」という前提意識と、絶対に近づけるための経験やデータの蓄積、その両方に力を割かないといつまでたっても闇雲に迷うだけだろうと思います。
終わり。

自分でなんとかするしかない話

最近人を観察していると、「誰かがなんとかしてくれる」という雰囲気を感じ取ることが多い気がします。
わからないこと、できないこと、きっと誰かが教えてくれる。
うまくいかないこと、誰かが何かを持ってきて、うまくできるようにしてくれる。
 
幻想だなぁと思います。
 
どんなにうまい話がそこに転がっていようと、うまい話を自分のものにするには自分が手を動かさなければならないだろう、と思います。
ただ、頭のいい人は、うまい話で人を動かしたりするので、それはそれで怖いなぁとも思います。
終わり。

自分の立場における振る舞いの話

僕には僕の立場があります。
もしかすると役柄に近いのかもしれません。
 
立場なりの振る舞いが求められることがあります。
立場なりの振る舞いをしようと思うことがあります。
 
振る舞いの是非を問わず、振る舞い自体が僕の役柄を演じるために必要なのであれば、とりあえず振舞っておこう、そう割り切ることが最近多いです。
そして割り切ることがそう悪いことではないと思ってきました。
 
振る舞いのコストにもよりますが、小さなコストで無駄な障害を取り除けるのならば、その振る舞いはやっといて損はないだろうと思います。
終わり。

休んだ話

朝目が覚めた瞬間に「体調が悪い」と思い、休みました。
最近は自分の体調、タスクの量などを朝にちゃんと計算してやることはやりつつ、休息も取りつつでバランスよく、一日の終わりに満足感と達成感を感じられるようになってきた気がします。
成長。終わり。

景色の話

景観地というものがあります。
綺麗な景色というと特別な場所でないと、という先入観が少しありました。
しかし、最近は自分の身近にとても綺麗な景色があることに気づきました。
 
毎日の日常の中に、「綺麗だなー」と思える時間と場所があるならば、それは少し幸せだと思いました。
そして、その幸せは自分で作ったり、見つけたり、そういった能動的な行動の結果と外から舞い込んできた受動的な結果と、いろいろなものが合わさってできた偶然と必然の間の産物なのだろうなぁと思いました。
終わり。

安定の話

安定な安定と、不安定な安定があると思っています。
そして多くの事柄は不安定な安定として、安定を保っているのだと思います。
1つのブロックを抜くと崩れてしまうジェンガのような。
 
不安定な安定を保つシステムを変更する場合、安定が壊れ何もかもがダメになってしまう可能性を考慮すべきだと思います。そして、壊れてしまっても大丈夫な場所で試行錯誤を繰り返し、安定してからリリースする。
教科書に書いてそうな事ですがそれができない場面をよく目にします。
 
不安定な安定を維持し続ける努力。
そこを怠ってはいけないだろうな、と思いました。終わり。