もやしもん

もやしもん(8) (イブニングKC)

もやしもん(8) (イブニングKC)

8巻が発売されてましたね。
今日読んだのですが、8巻、今までで一番衝撃を受けたというか、
今私が抱えている問題というか、悩み?にマッチしてる発言がぼろぼろ出てて、
がっつりきたので、もはや売れっ子漫画ではありますが、ご紹介。


若干ネタバレ気味なので、続く
8巻は主にビール、特に地ビールってどないよ?っていう話で、
最後には大団円で、若干泣きそうなったり、
その反面なに、この綺麗ごと、みたいな感情も生まれたりしましたが、
それはそれとして。


今回8巻で、私の心に残ったのは、日吉のじいさんと、樹教授の言葉。
「だいたいが本で勉強した奴ってああいうモノの言い方すんだよネー」

「選択に幅がある、というのは実に豊かだと思わないかい?」
この二つが、おぅ、うん、その通りなのだ、だがしかし、うん、いや、
と私の脳みそと心を刺激したのです。


まぁ、どちらの台詞もよく言われていることなんですけども、
最近、私の中で、私に足りないものはなんだろう、とうんうん考えることがあって、
そのうちの一つに魅力性というものがあるのです。
例えば、私って友達と話をしているときって、よく他の友達とやった面白いことを話すんです。
Aくんがこんなことしてさ、面白かったんよね、みたいな。
で、私の周囲の友達や、好きな先輩は変な人が多くて、
だから私は一緒にいたいと思うのだけど、
じゃあ私はどうなの?っていつも思う。
私と一緒にいたいと思う人、いると思う?といやいや、いなさそうって思うんです。
つまり私は必ず誰かのフォロワーで、誰かの何かをコピーしていることが多いのです。
そんなだから、「○○さんがこういってたんだけど」という前置きをしながらも
私の話は私から出た言葉で綴られていないことが多い。


で、月二回くらいのペースでやってるこの漫画紹介も
そのリハビリでやっていて、とりあえず自分が感じたことだけ書くようにはしている。
あまり面白くない文章だけど。


Podcastの録音なんかでも、話題になったりしたのだけど、
何かを批判したり、評価することって、ひどく人の感情を逆なでして、
ブログが炎上したりする時代じゃないですか。
だからといって、何かを批判、評価することを怖がって、やらなくなったり、表に出さないてのも自分の中でどうかと思ってる。
じゃあ、批評を表に出すときに、何が正しいのかって、考えたときに、
がっつり私が実際に触って、こう思ったんだっ!って言ってる人が正しいのかな、って思うんです。
あーあかんなぁ、いろいろと書いてて違う気がしてきた。
根本的な解決ではないのか。
うーん、でもただ、Aに対するBさんの批評が、A対Bの1対1から生まれた表現なら、筋通ってる気がするんよな。
でも、A対Bの問題なのに、Bさんの言ってることはCさんからの受け売りで、A対B(C)みたいな状況とか、
もはやA対C(B)みたいな、Cさんの圧力を受けたBさんの言葉とか、そういう状況が一番イラッときたりする。
だから評論家っていやがられてる気がする。A評論家の評価は本当にA評論家の意思なのか、それともスポンサー的な物が関わっている言葉なのか、
っていう疑心暗鬼がそこに存在するから、いまいち100%受け入れられない。
しかもA評論家が本当に自分の言葉を言っているかいないかも、全ては想像上のことで、実際に評論家として飯食ってるわけではない人たちの意見だから
そこでもやっぱり、A評論家に文句言ってる人も自分の言葉じゃなかったり。
で、細かいこと言っていくと、私がここにだらだら書いていることも、誰かからの引用かもしれないし、
そもそも、今書いていることは、結構いろんなとこで言われていることでもあるから、
おいおいおい、な感じやねんけど、
できるだけ、なんつーか、自分が熱弁できるような意見、を自分のアウトプットとしてさらしていきたいのです。


ビバ、自給自足ですね。


以上がなんで「だいたいが本で…」がぐっときたかの説明。
もう一個の「選択に幅がある…」がぐっときた理由はというと、
今、自分の中で「可能性最強論」というのがある。
それは何かというと、自分の中で、何かを決めなければいけないことってありますよね。
AかBを選ばなければいけない。
で、選択を行うということは、結構重要なことやと思っていて、
選択の積み重ねがその人のアイデンティティに繋がってくる。
例えば、私は漫画をよく読んでるけど、休日の日曜の真っ昼間に、外も出ずに買った漫画を読みあさるという選択をした理由が
私のアイデンティティに繋がる。
で、その理由の説明に対しての答えとして「可能性があるから」という回答は結構できた回答の仕方やと思う。
できた回答の仕方ってのは、反論に打ち勝つことができる回答、ってことね。
まぁ、漫画を読むという選択をした理由は可能性があるからじゃなくて、おもろい漫画読みたかったからなんやけど、
例えば、中学生とか、高校生のむかつく質問で、「古典とか勉強して役にたつんですかー?」みたいなのがあるじゃないですか。
で、その答えっていろいろあるんやけど、一つは彼らに可能性を与えるため、という物があると思う。
古典も、数学も、物理も、音楽も全部勉強してたら、そいつの将来の可能性がその分広がるじゃないですか。
10代の人たちなんかは、もう可能性の固まりで、社会はその可能性に対して出資していると考えていて、
で、歳を重ねて、選択を行っていくことで、その可能性は狭まって、
就職が決まったあたりで、可能性の喪失に気づいたりするのでは、って思ってた。
現に私は、内定決まったときに、可能性の喪失にきづいてかなり落ち込んだ。
で、いろいろ考えていたのだけど、その理論で行くと30歳くらいで私の可能性はなくなって、
後は決まりきった人生を歩むの?なんてこと考えて、いやいや、そうじゃないだろうと。
選択をするってことは可能性を一つなくということやけど、
選択をした先にいかに可能性を生む価値があるか、が一つの選択基準になって、
その基準は結構高い位置にあるんじゃないか、なんてことを考えていた。
だから、選択ができることは非常に豊なことじゃないか、っていう言葉に、再び納得したりしたそうです。


なんのこっちゃ。


ちなみにもやしもんは菌が見える主人公を中心とした物語です。