朝6時起床。
何ヶ月ぶりやら。
30分で支度をして、でかける。
今日は大学時代の研究室の同期と熊野まで旅行の日。
レンタカーを借りて大阪から和歌山は熊野まで行きました。
やっすんが運転、ネザーがナビ、みやんがフォロー、私が寝るという見事なコンビネーション。
高速で行ったんですが、やはりというか渋滞に巻き込まれる。
そして私とやっすんに襲いかかる尿意...
いや、ものすごい我慢したんですよ、私もやっすんも。
でもでも渋滞は続いて私達は限界で...
10数年ぶりに野外でしました。
で、そっから下道を行こうということになって
ナビの言うがまま進むと山の中へ...
車一台でギリギリの幅の道が続いたり、
くねくねくねくねした道やったり、
車旅行ならではの楽しみが増えて楽しかったです。
で熊野本宮にお参り。
なんか予想以上に荘厳な雰囲気で、圧倒されちゃったんですが、
やっぱ神社仏閣来て思うんは、何が嘘くさくて何が正当なものなのかということ。
荘厳で美しい社で、きっちり御参りはしたのですけど
私は普段神様を信じてる訳じゃなくて、
非日常の中で山奥に存在する非日常な建物に対して
ただ特別なものを感じているだけなんじゃないかとか。
ほかにも普段、電子的なものの囲まれないと生活できないような生活を送っておきながら、
何を今更自然に対して感動をしているのか、とか。
でもなんてか、私は確かに今綺麗な存在じゃないけど
ここにいてはいけないわけじゃない、て思った。
なんか話がぶっ飛んでてわかりにくいけど、
んーよくわからんなぁ。
昔熊野詣でに着た人は、この山道を越えてでも
ここの神様にお願いしたいことがあって
それはすごい観光目的で車で排気ガスを出してぶらーっと来た私達よりも
崇高な行動だと思うのだけど、
なんか私達と違うところって実はそんなことないのかなぁって。
昔はたぶん、こんな道もなくて、周りも山ばっかで、
熊野とか高野山とかが大きな山の連なりで、
関西の人達はそこに神の可能性というか、神聖なものを感じて、
山奥にこんな大きな社を作ったのかな、とか。
で、その心意気ってのは今の人達も理解した方がいいと思う。
それを踏み外す軽はずみな行動は、正当ではないと思って、逆にそれ以外のことって実は小さな問題かもしれんとか。
昔の人が崇高だと書いたけど、たぶんその人達も
何かしら罪悪感感じることとか、悩みとかあったりして
そういうのもあって、神様のとこ来たんやと。
それって今の人も同じやよなーって。
ただ今の人は科学が発達して宇宙にも行けたり
地球を壊せるくらいの力を持ってしまったわけやから、
神様に丸投げせんと、頭回して体動かして問題解決しろよ、
てことなんかなぁ、とか。
とかとか。
そっからもう一個(名前忘れた)神社御参りして泊まるとこに。
民宿でした。
こういうとこも久しぶり。
なんか民宿の兄ちゃんがええ人でいい感じやった。
汗だくだくやったので、風呂入って飲み屋に。
このメンバーで飲むのも久々でいろいろ話した。
でも風呂で体があったまってたからか、
一杯目でお酒が回って気持ち悪くなる。
そのあと、お菓子とか買い込んで部屋で二次会。
研究室の後輩に電話したりして声が冷たいですね、とか言われる。
そんな感じで騒いでたら、兄ちゃんに怒られたので、
23時には就寝。