共有するしないの話

随分前から共有する必要ってあるのか、と思っています。
 
色々なSNSが出てきて、色々なものを他人と共有することができるようになって、
結びつくことから生まれる幻想のようなもの、が注目されたり持てはやされていたのが数年前、という認識です。
そして少しずつ、その幻想が綻びを見せ始めて、その綻びに気づき始めたけど、それを解決できないまま、というのがここ数年、という気がしています。
 
幻想、というか、齟齬のようなものがあると感じていて、それは必然的共有と、偶然的共有の差のようなものだと感じています。
 
今自分の生活に必要なもの、自分の生活の延長にあって進化させるもの、それらは必然的に、というか共有する事を必要として能動的に情報を取得しようとします。
それらの、必然的、必要とした共有情報は即効的で、意味のあるものに感じる事が多いのだと思っています。
「必然的」「必要」なのだから、当たり前なのですけど。
 
一方、偶然的な共有、例えば待ち時間に何となく見たツイッターのツィート。
誰それがラーメンを食べたとか、誰それが何かのイベントに行ったとか、
これらの偶然共有された情報は、必ずしも自分にとって必要ではなく、ノイズのように自分の頭と時間の精度を減らして行きます。
このブログもきっと、ノイズです。
しかし、これらの偶然的共有がノイズであって必ずしも除去しないといけないかというと、それはそれで駄目なのだと思います。
なぜなら、偶然得られたものが自分の世界を広げることがあるからです。
 
この取捨選択によって、自分が必要としていものを必然的に得るための効率的な共有方法と、
ノイズを減らしつつも偶然的に自分の世界を広げるための効率的な共有方法、それらのバランスがうまく取れていないなーと感じます。
 
というノイズの話。終わり。