絶望的自浄性のなさの話

自浄、ということをたまに考えます。
自分で自分を直す、という意味で考えています。
 
自分を見直す、または他人からの指摘を真摯に受け止め自分を見直す、
そして悪いと思ったら自分を正す。
 
それは組織としてもあり得るのだと思います。
外からの力ではなく内からの力で組織の力、統率さ、情報伝達速度など、それらのパラメータを自己の中で高めることができるか否か。
 
自浄が見込めないと、かなり絶望的な感じがするのです。
外からの力を待つまで衰退をし続ける。そして外からの力が働くか否かは運であったり、または取り返しのつかない状態になって一から作り直す時であったり。
怖いなぁと思います。終わり。

進まない話

進まないことには理由があります。
進めようとしていない、別のことが割り込む、などなど。
 
進めるべきことが進められていないならば、おそらくは優先度の設定と選択をミスっている気がします。
漫然としていてはいけないのだと思います。シビアに何をするか、何に時間をかけるか選択しないと、いけないのだと思います。
今日はそれができませんでした。終わり。

説明する話

説明することが多いです。
説明、結構難しいと思います。
 
まず事象をよく理解しなければなりません。
次に理解した事象を相手の理解できる言葉で説明しないといけません。
 
ただ自分の頭の中にある言葉を並べるだけでは、相手が理解できるとは限らないことが難しい点です。
そして、相手が理解することが到達点にもかかわらず、どこかでめんどくさくなって放棄してしまうことがあります。
そういった時、大抵うまく伝わらず、良い結果に至らないと思います。
 
めんどくさくなって放棄しそうだ、と思ったら危険信号だと最近思います。
そう思ったら、一度仕切り直して説明しきるまでの集中を維持するか、
めんどくさい部分を一度切り離して別途説明するか、した方が良いと思っています。
 
少なくとも、自分が伝えるだけ伝えて、相手が理解していない、それはできるだけ避けた方がいいと思っています。終わり。

周りを見る話

周りを見て行動を選択する、よくあることだと思うのです。
対面から人が歩いてきたらどちらかに避ける。避けないとぶつかるであろう、そうだと思うのです。
避ける前に、前後や左右を確認する。避ける先に誰かが、または車などが来たら危ないと思うからです。
 
周囲の目を気にしすぎることはしなくて良いとは思うのですが、
周りを見た行動はしていきたいと思ったのです。
自分の立ち位置が誰かの邪魔にならないか、どこを歩いていくべきなのか。
 
それらを気にしなくなった時、それはとてもみっともない姿に見えてしまうと、心に留めておきたいなぁと思いました。終わり。

寝ていた話

今日は体調悪くほぼ寝ていました。
そのせいか一日がないなーと思いました。
一瞬で過ぎていくような感覚。
色々もったいないな、と思いました。終わり。

愚痴の話

愚痴が多いです。最近愚痴が多いです。
 
愚痴、良し悪しがあると思うのです。
 
愚痴ばかりだと悪い印象があります。
愚痴を聞かされる人が良い印象を持ったり、良い感情になったりすることは稀だと思います。
自分にではなく、他人同士の会話の中の愚痴が聞こえてくるだけでうんざりすることもあります。
愚痴はないに越したことはないのかもしれません。
 
しかし、愚痴を言わねば愚痴の根源たるストレスや不満はどこに向かうのでしょう。
個人的には何かしらで発散しないと自分を少しずつ痛めるだけだと思っています。
我慢をして外に表現せず自分の内側で抱え込むだけだと、少しずつ自分の中の、抱え込んでいる壺のようなものが腐り落ちて、
侵食し周囲の感情や心まで壊していく気がします。
抱え込まないようにするために、何かしら外に吐き出す、発散することは必要な気がするのです。
そしてそれが愚痴という形態をとることは少なからず許容する必要があるのかもしれません。
 
良し悪しがあると思うのです。
そこから前に進めずにいます。終わり。