自分の境界と檻の話

今日は犬フェスの日でした。
菅野さんが欠席されるという話を聞いたときは正直、ガッカリとしてしまいましたが、
いざ始まると楽しさと感動とがずっと続く楽しいフェスの時間でした。
 
楽しい貴重な時間が目の前にあるとき、自分について考えてしまうことが多いです。
そんな勿体無いことをせずに目の前の楽しさに集中しないと、すればいいのに、つい頭は勝手にあらぬ方向に向かっていってしまいます。
 
今日は幸運にも、アリーナ3列目という好位置でした。
目から入ってくる情報もたくさんあって、音も波を肌で感じられるくらい近くて、いろんな情報が体を突き抜けていきました。
 
自分と他の周りの境界を取り除きたかったのです。
好きな人が歌っている、好きな声、音、音楽、歌詞、音の連なり、
その姿、表情、仕草、
会場の雰囲気、ノリ、
全部をその場で、その場だけで感じ取られる、貴重なものを、自分に直接触れさせたかったのです。
 
でも、自分には思考の檻があります。
考えてしまうのです。どうすれば直接触れるのか、それすら考えてしまう。
どうすれば目の前の貴重な、貴重な貴重な時間を、空間を大事だと認識しうることができるのか、
未来ではどう感じているのか、周りからはどう見えているのか、あの人は今何を思うのか、楽しんでいるのか、終わったら何を話してしまうのか、
考えが始まって、僕は結局ガラス、檻の中から、見てしまっているような気がするのです。
 
ボロボロ泣いていたので、きっと、少しだけちゃんと直接触れることができたのだと思います。
でも、もっともっともっともっと、感じることができたんじゃないか、と後悔のようなものを感じて、反芻をするのです。
 
今日は貴重な一日でした。
犬フェス2が早速発表されましたが、今日という日は二度とこないです。当たり前です。
今日が貴重な一日であったこと、それを忘れることはないでしょうが、つい数時間前に目の前にあった、あのキラメキをあの音をすでに忘れかけています。
僕の脳は、記憶装置がうまくできていなくて、すべてを覚えておくことができません。
あの素晴らしい時間で起きたことを、少しずつ忘れてしまう。だからこそ、目の前の貴重な、一瞬で流れて消えてしまう音を大切にしたいと思ってしまうのです。
 
好きな人たちがたくさんステージに立っていらっしゃいました。
そして、ステージに立っていらっしゃる好きな人達は、一瞬一瞬を大事にしているんじゃないか、といつも思うのです。
あの場を作り出す人たちが、持っていたパワーを、これまでに培ったパワーをあの場で出して、あの場ができる。
それは毎日を、今日を作るための昨日を、一昨日を、そのまた過去を、あの人達それぞれのパワーを持って生きていたからこそ、あの場所に立って、あれだけのパワーを発することができるんじゃないか、とそう思いました。
 
僕は好きです。
今日は欠席となってしまいましたが、菅野さんが好きです(軽症で、早く回復されることを祈っています)
 
あぁ、好きです、と、
心から好きです、と、本当に言えるだけの過去を僕は歩んだろうかと、思ってしまいます。
思考の檻を作ってしまいます。目の前の、貴重なキラキラを、直視できなかったのです。
 
今日の全てを覚えることはできなくても、今日のカケラを持って、明日からは生きていけるだろうかと考えてしまいます。
それを檻とせず、次にライブで会えるときは、何も考えず、言い訳をせず、目の前のキラキラを思う存分見て聞くことができるかな、と自信がないです。
 
そんな自分語りのしょーもないブログでありました。終わり。