経験は自分の手柄ではないよなぁと思います

自分の経験、そこには自分の力と他人の力と何かしらの運のようなものが絡み合っているだろうと思います。
 
成功経験にも失敗経験にもそれは言える気がします。
そこを忘れて、自分の経験の全てを自分一人の手柄だと錯覚し始めると、
いろいろなことが根拠なく正当化されたり、
再現性の低いプロセスが実行されたりするのかなぁと思います。

積み重ねって何だろうと思うことがあります

何となく、何となく、ですが、
あるゴールに至るには道筋があると思っています。
 
その「思っている道筋」が正しいかは怪しいのですが、
何かしら道筋があるだろうと、
ゴールに至る過程、ゴールまでの小さな成果の積み重ねがあるだろうと、何となく思っています。
 
しかし、自分が思う道筋とは別の道筋を見ているのか、
それとも道筋なんて見ていないのか、と思える状況に出会うことがあります。
 
思考の方法は人それぞれで、ゴールに一気に飛躍する人もいるとは思うので、
僕の頭の回転が遅いのだろうと思うのですが、
では、僕の考えている道筋って何なんだろう、と思ってしまうのでした。
 

解釈は違うだろうし、他人の解釈に沿ったほうが良いこともあると思いました

商店街に東からパン屋、肉屋、八百屋が並んでいたとして、
Aさんが「あの商店街にはパン屋、肉屋、八百屋がある」というのと、
Bさんが「あの商店街には八百屋、肉屋、パン屋がある」というのは同じだと思います。
 
誰かが「東から西を順方向とする」というルールを作れば、
Aさんは順方向に説明をし、Bさんは逆方向に説明していることになります。
しかし、ルールを守っているかどうかは別として、Bさんの頭の中では
西から東が順方向で、東から西が逆方向かもしれません。
 
そういった解釈の違いでAさんとBさんの話が食い違うことがある、
とよく思います。
 
しかし、言葉の端々から、「Bさんの頭の中では西から東が順方向なのだな」と推測することは可能だと思います。
そして、ルールは別としてBさんの中の順方向、つまり西から東の方向へ説明をした方がわかりやすいだろうと思います。
 
一つの事象に対する解釈はそれぞれで、
その解釈を統一することも重要ですが、
何かを説明したり納得させるなら、相手の解釈に沿って説明した方がわかりやすく、
その上で解釈の違いに言及した方がうまくいくこともあるなぁと思った次第です。

ポケモンを探していました

朝起きると、寝る前に枕元に置いたはずのポケモンが見当たりませんでした。
いつもは寝る前にポケモンをつけて布団に横になった時に、ここに置く、
そう決めている「ここ」にポケモンがなかったのです。
 
ポケモンがないと何も見えません。
自分の部屋は何となく物の配置がわかっているので、
何とかなるのですが、外に出ようとなるとポケモンが必須です。
 
とりあえず手探りでお香を焚いて、
ポケモンが出そうなところを所々探しておりました。
 
 
という嘘をのたまうほどに何もなく、ポケモンGOしてたら頭が痛くなって1日寝てたという1日でした。

場所の記憶って何だろう、と思いました

昔、子供の頃、家の近くに廃墟があって、
きっと幽霊か何かいるのだろうと思っていました。
 
大人になってもずっと廃墟でしたが、
僕が仕事をするようになってから、取り壊されて子供が遊ぶ空き地になりました。
 
子供が遊んでいるので、
何か明るい感じはしますが、僕の中では廃墟であった時間が長いので、
この場所には暗いイメージがあるなぁと思います。
 
そんなことを思いながら道をぶらぶら歩いて、
この道がずっと昔から道ならば、この場所は「道」としてのイメージ、記憶が定着してそうだなぁと思いました。
 
季節柄怖い話を聞いたり見たりしますが、
場所に根付くものは、そういった場所に対するイメージがそうさせるのかなぁなどと考えました。
 
しかし、場所の記憶、と考えた場合、
この場所自体は人間が存在する前から、ずっと昔から存在して、
「場所」の持つ「記憶」と考えた場合、道になったのはつい最近で、
ちょっと前まで海の底だったんだけど、なんてこともあるだろうなぁと思いました。
 
つまり、僕の思う、「ここは道として、いろいろなことがあったんだろうなぁ」とか
「ここは廃墟で、いろいろあったんだろうなぁ、何か暗い感じがするなぁ」というのは、
場所にまつわる「人」の記憶であって、結局人がいないとこの感覚は存在しないのかもなぁ、
などと思ったりした次第です。