名前とアイデンティティ

昔、高校の先生が、名札をつけない生徒に対して、
「その名札は、お前のアイデンティティだ!それをつけないということは
おまえはアイデンティティを捨てるということだ!」
と説教していました。
それを聞いて、私はそんなちっぽけなものに私のアイデンティティは帰属しないよ、バーカ
と高校生特有の上から目線で考えてたんですが、今なら先生の言うことわかるかも、と。


そんな風に思い返したのは、今日コンビニに立ち寄ったとき。
私、なにげにレジの人の名前を名札で確かめるなーって。
よくいくコンビニの店員さんは、名札を見て勝手に名前を覚えて、
その接客態度からその人のアイデンティティが私の中で構築されていく。
もし名札がなければ、あの人、で終わってしまうのだけど、
名札があるから、ファミマの田中さん(仮)はこういう人だ、という認識がふくれあがる気がする。
ちなみに私の中で、ファミマの田中さんは大学でて、でもバンドやっていたかったり、
何をしたいかわからなくて、就職もしなくて、
夜はコンビニでバイト、という設定です。
これはアイデンティティではなくて、ただの妄想です。


で、名前とアイデンティティって何かなぁ、って移動中の電車の中で考えていたのだけど、
結局名前っていうのはインターフェイスでしかない。
高校生の頃、そんなちっぽけなものに私のアイデンティティは帰属しない、と思っていたのも
ある種感覚としてはあっていたと思う。
私はロジという名前だとして、ロジという名前でなくても私は存在している。
私は卵が好きです、私はトマトが嫌いです、ていうのは動かない。
だから私が一人でいるならば、アイデンティティに名前は帰属しない。
でも、もし隣に人がいれば、そこで名前が必要になってくる。
ロジという名前がなければ私は外部と接触ができなくなってしまう。


だから、私にとって、名前っていうのはアイデンティティではないのだ。
あくまでインターフェイス。
インターフェイスをとりかえることで、私はネット上ではロジとして存在して、通信を行って、
普段の生活では本名で通信を行っている。


しかし、名前にアイデンティティは帰属してしまう。
例えば、おまえ、今から麻生太郎と名乗れ、と言われた、嫌だ。
だって、麻生太郎という名前には既に強固なアイデンティティが付属されている。
病院で「麻生太郎さーん」て言われたら、ほとんどの人が、あの麻生太郎?って思うはず。
名前にアイデンティティがついて回る。


だから、名札をしていない、名前のないあの人のアイデンティティは確かにそこにあるのだろうけど、
私についてこない。
名札をしている田中さんのアイデンティティは、名前と一緒に私とついて回る。


のかなーなんてことを思ったよって話。
名前は大事です。
名札も大事です。


会社とか、で特に、目上の人は名札の上にふりがなもふってくれると
下っ端としてはドキドキしなくてすみます。


Twitterより、以下メモ
roji: メモ、アイデンティティが絶対的なものか相対的なものかにもよってくるか
roji: メモ、名前はインターフェイスであって、外部との接続が少ない場合においては、アイデンティティに名前はほぼ必要ない…?
roji: メモ、アイデンティティに名前は付随しないけど、名前にアイデンティティは付随するのか?