会議の話

会議、なぜこんなに悪い印象が・・・
無駄な会議を減らせ、という話はよくありますが、有意義な会議、の話はあまり耳にしないです。
多分無駄な会議を減らせていないからだと思います。
 
メソッドはインターネットの海を検索するだけで色々出てくるものの、
「これは私には合わない」みたいなよくわからない個人的感情で進まなかったりします。
 
それ、溜飲下げたいだけなのでは?不安を共有したいだけなのでは?
そう思うことが多々あります。
 
人はどうしても、誰かと喋りたいという欲求があるのではないかという思いがあります。
仕事場でほぼ私語をしないのですが、周りから耳に入ってくる情報はボヤキが愚痴が多かったりします。
それはあまり必要なさそうに見えてしまうのですが、それで成り立っている何かがあるのだと思います。
それを取り上げたら、精神的にまいってしまう人もいるのかもしれません。
 
必要、不要で考えてしまうと確かに窮屈です。
判断基準がそれぞれです。民主主義、のような皆の意見を聞いていると、いつまでたっても何も決まらない時間だけが過ぎたりもします。
集団で動くならば、集団にルールがあるか、独裁的なリーダーがいるとわかりやすいです。
しかし、そのような環境にないならば、集団を形成する個々が可能な限り無駄を排除した行動の選択を迫られてしまうこともあるんじゃないかと思います。
そして、それらはおそらく共有できることはなく、結局「私のやりやすい方法は変えない」という○害のようなものが生まれつつあるのかもしれません。
 
変化の必要性、柔軟性、やりながら模索する寛容さ。そんなものが必要なんじゃないかと思います。
初めから、乗るだけでのレールを求めるのは、ただただしんどいのです。疲労だけが残って、レールに乗る人は文句だけをいう傾向にあります。
置いてけぼりにしてしまっていいんじゃないかと思ってしまうのです。
拾ったところで、価値があるのか、それは次の世代が握っている気がします。
3年、5年後の収益に関わるのは引退まじかのおじさん、おばさんではなく、若手です、
彼らが十二分に力を発揮できるように環境を整備することに時間と労力を使いたいでのす。
わからない、ついてこれない、それは能力の問題でもあります。能力に陰りが見えていることを自覚し、挑戦をするか、諦めるかをしないといけないのだと思います。
若手が歩く道筋の邪魔な石ころにならないように、気をつけていきたいのです。
そして、邪魔な石ころはさっさと温和に排除したいのです。
 
使える経験値だけを厳選して、ボヤキや愚痴はどうか自分の中で処理をしてい欲しいのです。
そうなるように、少しずつ仕向けていけるように、頑張っていきたいなぁーと思ったりしました。終わり。