十二国記「白銀の墟 玄の月」を読んだ、ネタバレをおそらく含む話

金曜日に休みをもらって三連休にし、ほぼずっと十二国記最新刊「白銀の墟 玄の月」を読んでしました。
白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 おっっっっもしろかった!!!!

 
ここから内容に関わる部分と関連しながら、だらだらと思ったことを書き連ねるので、ネタバレご注意です。
前の話となる「黄昏の岸 暁の天」を読んだ時、天の摂理、十二国記という世界にあるシステム、それが理解ができませんでした。
理不尽ではないか。麒麟が天の意をくみ、慈悲を問うならば、「黄昏の岸 暁の天」に出てきた天はあまりにも理不尽である。
作中で李斎に感情移入をしました。
 
しかし、「白銀の墟 玄の月」を読んでいく中でその考えは少し変わりました。
「白銀の墟 玄の月」は人の話だと思ったのです。
麒麟である泰麒を含め。
泰麒は「黄昏の岸 暁の天」において麒麟たる素質を失っていた。
その前提があるのかもしれませんが、「白銀の墟 玄の月」における泰麒の行動は、
麒麟の立場を利用することはあっても、麒麟の奇跡は用いず、泰麒自身が選んだ言動を続けていく。
 
よくも悪くも強かになった。そう文中にもありました。
泰麒がいつどこで強かになったのか、それは少し不明です。
魔性の子」その時期を経て強くなったのか、少なくとも「風の海 迷宮の岸」で見せた幼い泰麒ではない印象を受けました。
「泰の御仁は気性が荒い」確かそんな言葉が作中にありましたが、泰麒もまた気性が荒いというわけではないですが、芯の強い台輔となっていきます。
その力強さが読んでいても頼り強く、期待を持たせます。
 
そしてその力強さ、強かさは、麒麟の奇跡ではなく、泰麒自身の人のありような気がしたのです。
 
これまで、風の万里 黎明の空などにおいても麒麟は特別であり、王は絶対でした。
その摂理が最後の最後で窮地を一転するクライマックス、その高揚感が非常に面白かった。
しかし、戴において王は不在であり、麒麟たる泰麒は角を失い使令をを失い、麒麟であれど人に近しい存在だった。
それは魔性の子からの持続性をほのめかすようでもありました。
泰麒は黒麒、稀な存在であり饕餮を下すほどの力を内在する特別な麒麟です。
その特別さが、奸計を始めとるする麒麟らしからぬ行動を起こし得たのかもしれません。
しかし、どちらかというと魔性の子におけるただの学生であった高里。
その人間臭さ、それがずっと泰麒を動かし続けているような気がしました。
 
他の登場人物も然りです。
四巻にわたる長い話の中、多くの人が登場します。
彼らは彼女らは各々の理由をもとに行動を起こし、何かをつなげていった。
物語中盤で繋がりは大きくもなり、悲しいながらも小さくもなる。
しかし、何か人の営みが何かをつなげ最後の最後の話を続いていく気がしました。
 
「黄昏の岸 暁の天」で感じた不条理、理不尽。
天は人を助けないのか、という疑念。
しかし、結果、「白銀の墟 玄の月」において、天の采配か否かは不明として、いくつかの奇跡が起き、
そしてその奇跡以上に人が動くことで国が前進をしました。
李斎は最後にまた天に関する諦めを感じます。
しかし、それは当たり前のことじゃないか、と思ったのです。
多大なる被害、多大なる損失、悲しみが最後に残ります。
全てがうまく行ったわけではなく、不明であるものも最後に残ります。
 
しかし、「白銀の墟 玄の月」に関して、これは人の物語だと思ったのです。
ある国における、国を、生活を、未来を少しでもよくしようとした人たちの物語。
ある人は一縷の望みをかけ、子供と一緒に危険な道を行った。ある人は日々の少ない糧の中ら供物を備えた。
それらが一つに結びついていく感動。
もし天が動いたとして、それはそれで何かが違うような、今だとそんな気がするのです。
人の営みは、確かに天から与えられる天候などの偶然によって左右される。
 
十二国記をずっと読んでいて、王は神、麒麟麒麟。その特別さが当たり前のようになっていました。
しかし「白銀の墟 玄の月」において、王も人、麒麟も人なのではないかと思いました。
それら全ての人の営み、そのありよう。為人という言葉が作中にも出てきましたが、人、それぞれが何を思い、何を行動にうつすのか。
王はその行動を天の摂理に組み込まれ、過ちを起こせば失道という結果が待つ。
しかしそれはその他の人に言えないことなのか。
 
阿選は王であれば失道だと言われた。
泰麒はやむなし、自分で選択した道とはいえ穢瘁が残った。
正解ではなかった。選ばざるを得なかった。それは天の意図ではなく、それぞれが選んだ、人としての道の末だった。
 
十二国記の世界観において、様々な天の摂理というルールがあります。
それを今回、琅燦は試そうとしたのかもしれません。
しかし、天の摂理の前に、戴は人によって動いたのだと思います。
 
一巻、二巻、三巻、四巻と数えきれない人物が登場しました。
そしてそれらは最後に向けて何かしらの結果に至っていきました。
 
過去が現在を作る。そういった言葉が出てきますが、登場した人物の行動、行末、それらが折り重なって積み上げられ、時に瓦解し、それでも積み上がっていく。
その物語の厚さと熱さ、読み進めるに連れて心が震えるようでした。
三巻、四巻では何度かボロボロ泣きました。
 
人がつなぐ物語、それに加えて、
最も原点となる魔性の子が1991年刊行。
私は90年台後半から十二国記シリーズを読み始めたので後追いでした。
しかし、もう約30年ほど前の話。
その魔性の子の話が、最新刊に受け継がれ、熱い展開になっていきます。
「ここで魔性の子を出すか」唸りました。
魔性の子に限らず、風の海 迷宮の岸、黄昏の岸 暁の天から来る話も出てきます。
つまりは、これまでの戴に関する話の全てが関わり、集約され、事が動いていく熱さ。すごく面白かったです。
 
個人的には三巻、ある親子が供物をする話。そこでボロボロ泣いてしまいました。
貧困に喘ぐ民が、その貧困を我慢してでも続けたほんの少しの供物を川に流すという話。
それには意図はなく、彼らにとっては祈りと感謝のただの供物だったのです。
それが実を結んでいく展開。
小さな思いが、結果に繋がる可能性があるとは言えない行いが、何かのきっかけで届いていく。
残したものが、未来に繋がっていく。そんな話に弱いです。
 
 
だらだらと書いてしまいましたが、一巻から四巻にかけて、本当に面白かったです。
続きが読みたいです。
こんな面白い話を作ってくれて、小野不由美先生には感謝しかないです。
 
ずっと本ばかり読んで終わった休日でしたが、良い休日でした。
終わり。